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zoom RSS 関門間の足として残った、関門連絡船(遅すぎた廃止航路)

<<   作成日時 : 2017/08/09 23:56  

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JRの関門トンネルをご存じだろうか?
下関駅と門司駅を結ぶ全長3.4kmほどのトンネルで、昭和17年に現在の下り線が単線で開通、その後昭和19年には現在の上り線も開通しています。
建設までの経緯を見ていますと、トンネルの他に橋梁での建設も計画されたようですが、最終的に国防の上でもトンネルが有利であるとしてトンネルが建設される経緯があったと言われています。

さて、今回は関門トンネルそのもののお話ではなく、関門トンネルとは別に運行されていた関門連絡船のお話です。
関門連絡船はいつまで運行していたのか?

青函連絡船は青函トンネルの開通と入れ代りに廃止になりました。
宇高連絡船も、備讃瀬戸大橋線が開通して入れ代りに廃止になりました。
かつて、宇高連絡船乗換で賑わった宇野駅は今は駅舎自体が小さくなってしまい、かつては東京直接宇野まで。特急富士が乗り入れたりしたことが夢のようですが。関門連絡船は、実は昭和39年11月1日迄運行されていたのです。
鉄道トンネルの開通が、昭和19年(複線開通)ですから、開通後も20年間ほど運行されていたのです。
当時の状況を当時の時刻表などで参照してみますと、30往復程度していたそうで、下関駅から門司港駅の間をトンネル開通後も旅客輸送を行っていたそうです。
乗車時間は15分であり、門司港駅は門司と名乗っています。

トンネル開通前の関門連絡船 昭和15年時刻表(復刻版から)
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トンネル開通後は30往復に減便されたそうですが、引続き運行されていたそうです。
昭和21年時刻表(復刻版から)
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昭和39年4月時刻表
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廃止は昭和39年11月とされていますが、39年10月の時刻表では航路の記載も無く、実質的には10月までに運行は終わっていたものと思われます。

国鉄時代(鉄道省時代も含めて)にこうして連絡船が残された背景ですが、本来であれば昭和17年の開通時に廃止すべきであったのですが、戦争中のことでもあり戦時輸送に対応するため旅客は船舶を利用することで関門トンネルは貨物輸送に専念できるメリットもあったようです。
戦後は昭和24年・5年頃の混乱期には利用者も多く賑わったそうですが、昭和29年をピークに利用者は激減し、特に昭和33年、関門国道トンネル(2号線)が開通すると更に利用者は激減したそうです。

昭和39年当時では、関門間には鉄道トンネル、自動車トンネル、民間航路(関門汽船・関門海峡汽船)が存在し、国鉄のシェアは、全体の1%程度でありその殆どが下関から門司港間の区間利用のみだそうで、本来の鉄道旅客を受けての利用者は殆どいない状況であり年間40万人程度だったとのことであり、昭和38年の収支係数は470(現在の貨幣価値で換算すれば4700)の大赤字航路でもありました。

なお、航路廃止に伴い午前の通勤時間帯に2本の列車を増発したと書かれています。(参照、国鉄線昭和39年12月号)

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引用 国鉄線昭和39年12月号

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